煙草と短歌 – cuyulas | 喫煙情報メディア

Culture                

短歌というものに、どれくらいなじみがあるだろうか。
俳句や川柳との違いも曖昧だという人もいれば、歌会に自作を提出しているという人もいるかもしれない。

短歌は、「三十一文字みそひともじ」の定型詩である。つまり、5音・7音・5音・7音・7音、合計で31音の韻律を基本とする。

この短い詩の歴史は長く、多くの人が学校で習ったであろう『万葉集』は現存する最古の歌集だが、その成立は奈良時代にまで遡る。

短歌に詠まれる事柄を一般に歌枕と呼び、森羅万象が詠まれていると言っても過言ではないほどの種類があるが、なかでも、安土桃山時代に日本に流入し、江戸時代にはすでに広く楽しまれていた嗜好品である煙草は、よく詠まれるもののひとつである。

たとえば、『岩波現代短歌辞典』で「たばこ」の項目を引いてみると、次のようにある。

長いあいだ酒とともに、心の慰めになる手軽な嗜好品として、広く身近に愛好されてきた。そのため、煙草を吸うしぐさや背景・味・匂いなどのわずかな描写でも、その慰められるべき心情やその場の状況を推し量る手掛かりになる。

煙草というモチーフを通じて多くのことを短歌が伝えようとしているならば、逆に短歌を通じて煙草という嗜好品が持っている性質を改めて認識できるのではないだろうか。ここでは、近代短歌と呼ばれる明治以降の歌を取り上げて、それを読み取ってみたい。

1. 煙草くさき国語教師:心理的性質

JTの前身である日本専売公社はかつて、「たばこは心の日曜日」というキャッチコピーを掲げていた。
もちろん、煙草には休日のような心地よい安定感をもたらす作用もあるが、同時に、どこか哀愁のようなものを孕んでもいる。

煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし

寺山修司

この歌は、煙草が持つペーソスをもっともよく表しているもののひとつだろう。この歌について、自身も高校の教員であった歌人の小池光は次のように述べている。

 こういう学校教師のイメージは今日ではそぐわないものになったが、ある世代から上の人々には、きっとひとりふたり、重ね合わさる先生の顔が浮かぶ。教師という職業が、挫折と断念の上に選択された長い時代がある。
 数学でも英語でもなく、国語教師という設定がポイント。国語すなわち自国の言葉。国家のせつない夢とその挫折が、一教師の上に重なる。「煙草くさき」に、彼と社会の貧困が浮かびあがる。

『現代歌まくら』

つまり、国家というものの夢と挫折、国語教師自身の夢と挫折が、煙草という小道具を使って描かれていると言っているわけだが、煙草を吸うこと自体も、どちらかと言えば挫折に近い行為だと思う。

思ふことさうたやすくはならぬのをさとったころにおぼえたたばこ

清水信

この歌に詠まれている心情がまさにその例で、煙草を吸うことにはどこか、思い通りにはならない現実となんとか折り合いをつけているような感覚がある。小池はこのことを、「果たそうとして果たせない、現実の消費と蕩尽の、つかのまの代替行為」と表現している。

不可知といふ予感はるかに烟らせて研究室にかをる煙草は

坂井修一

坂井修一は、東大教授も務める情報工学者である。「不可知といふ予感」というのは、この研究を進めても先に道はなく、行き詰まるのではないかという直感のことだろう。その絶望に煙草が寄り添う。

とらへられさうな思ひが胸を過ぎ煙草にいそぎ火をつけて喫ふ

長谷川銀作

これもまた、「とらへられさうな思ひ」を生じさせる現実との折り合いをつけようとする歌だが、喫煙者なら誰でも、精神的な調子があまり芳しくないときの煙草がむしろ美味しいということを知っている。恋人と言い争いになったあと、仕事で失敗して謝ったあと、友人に言うべきではないことを言ったあとの煙草は、なぜか美味しい。

心形をもちはじめ来る

では、どうして煙草を吸うことが現実と折り合いをつけていくことになり、またそのときの煙草が美味しいのだろうか。

灰皿に煙草もみつぶし立ちしとき心形をもちはじめ来る

村野次郎

煙草を消して立ち上がるときに心が形を持ち始める、と言っているわけだが、逆に言えば吸っている間は心ここにあらず、ということだろう。

喫煙によりそういった状態が引き起こされるのには、2つ理由があると思う。ひとつは、ニコチンのもたらす多幸感であり、もうひとつは口唇期的な快感である。

ニコチンの作用はいろいろあるが、摂取するとまず報酬系に作用し、ドパミンを放出させる。このドパミンが多幸感をもたらし、どこか夢うつつといった気持ちになる。

そして、口唇期というのはフロイトが提唱した概念だが、母乳を吸うなどの行為による刺激で、口唇から快感を得ている、主に生後1年半ごろまでの時期のことである。その快感は成人においても持続し、性的な快楽において大きな役割を果たす。煙草を口にくわえることがそれをもたらすのは自明のことだろう。

つまり、煙草を吸うという行為は精神的な快楽と肉体的な快楽を同時に享受することであり、それにより一旦現実から離れることができる。現実がつらいものであればあるほど、喫煙によってもたらされる快楽との落差は大きい。だから余計に煙草が美味しく感じられるのだと思う。

タール1ミリグラムの烟けむり

一方で、煙草には心を落ち着かせる作用もある。

ニコチンは摂取するにつれて、やがて鎮静作用をもたらすようになる。はじめの快楽は徐々に失われていき、むしろ安定感を生じさせる。

また、煙もそれに寄与していると思う。

ひとときの時間を止めて眺めいるタール1ミリグラムのけむり

田島邦彦

多くの人が、灰皿に置かれた吸殻からゆらゆらと立ち上る煙をなんとなく目で追ったことがあるのではないだろうか。煙を無心で眺めることには、どこか催眠めいた安らぎがある。

区切りをつけて煙草を吸い終えるときには、冷静な心で現実に戻る。快楽と鎮静を両方とももたらすことができるから、煙草によって現実と折り合いをつけていくことが可能になるのではないだろうか。

そうして見ると、「たばこは心の日曜日」というキャッチコピーは、それを考えた人がそこまで思いを巡らしていたか定かではないが実に言い得て妙で、日曜日の朝は快い気分だが、日が落ちる頃には月曜日という現実と向き合うことになる。そしてそれでも心に日曜日を与えることを求める人が、どこか哀愁を孕んでいるのもまた必然のように思われる。

一本のたばこを吸へば必ずや一本の失望がおとづれる

小池光

2. ほしいままなる雲づくりする:外形的性質

視点を変えて、煙草の外形的な側面に目を向けてみたい。

山に向ひ煙草を吹きて我はわがほしいままなる雲づくりする

金子元臣

「ほしいままなる雲づくりする」とはどういうことだろうか。おそらく、煙草の煙を望ましい形になるように上手に吐いてみせることを言っているのだろう。

しろがねの母の煙草にきざみつめけぶりはきをり輪にまろめつつ

穂積忠

私はできないが、煙草を吸う人は結構器用に、煙を輪っかにして吐いたりするものである。そう考えると、「ほしいままなる雲づくり」も荒唐無稽な表現とは言えないように思う。

吹く風のかたちをみせて吾が吐きしたばこのけむり消えてゆきたり

杜沢光一郎

一方でまったく作為なく煙を吐き出すこともある。というか、多くの場合はそうだろう。そうすると煙は、空気の流れに応じて自由に形を変える。風そのものを見ることはできないが、煙を通じてなら見ることができる。

上向きに煙吐き出す癖のこと秋来るごとに思ひ出すべし

小佐野彈

これは、作為と無作為の中間と言える。煙を器用に吐き出しているわけでもないが、考えなしに吐き出しているわけでもない。おそらく周囲に煙が直接当たらないように遠慮して、上向きに吐き出しているのだろう。人といるときにはこのように煙を吐く人も多いかもしれない。最初は意識的にそうするのだろうが、やがては意識せずともそうするようになり、それが癖となる。

煙草の火玉一つが紅し

火を使わない煙草もはるか昔から存在するが、ごく最近までほとんどの人がそれを燃やして楽しんでいたので、煙と並んで火は煙草の象徴的な存在だろう。

煙草の火深夜の路のさびしさを微かにてらしそひて行くかな

金子薫園

眼のさめて暁闇に吸ひつけし煙草の火玉一つが紅し

若山牧春

2首はどちらも夜の煙草火を詠んでいる。煙草の火はささやかなものだが、それでも「さびしさ」を照らすものであり、煙草を吸う人に物理的にも精神的にも寄り添ってくれる。また、同時に暗闇では煙草の火くらいしか目に写るものがなく、鮮烈な印象を残しうるものである。

赤裸の鹽田夫えんでんふ迫りてわが煙草より炎天へ火を奪ひ去る

塚本邦雄

本来ささやかなはずの煙草火が炎天という莫大なエネルギーを持つものに奪い取られていて、「赤裸の鹽田夫」と併せて実に熱量の大きな印象を与える。そして、「鹽」(塩)と「煙草」が出てくるのが面白い。作者が意識していたかはわからないが、これが詠まれたときには存在した日本専売公社が扱っていたのがその2つであり、詩的なイメージと現実の特殊会社が重ね合わされているような感じがする。

また、煙草の火が直接出てくるわけではないが、煙草に火をつける道具による火が詠まれることも多い。

ひらひらとライターの火はひかりつつ他意があろうとなかろうとあお

野口あや子

煙草の火が赤いのに対してライターの火は確かに根元が青い。ターボライターなら火全体がほとんど青いだろう。その対比が鮮やかである。

着火具を詠んだ短歌で一番有名なのは次の1首だろう。

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

寺山修司

マッチの火も、煙草の火と同様非常に小さく、かつはかないものだが、それが祖国という非常に巨大で、そしてやはりはかないものと同時に提示されている。

3. 煙草いりますか、先輩:社会的性質

煙草は、嗜好品という個人的なものであると同時に社会的な側面も持っている。

煙草いりますか、先輩、まだカロリーメイト食って生きてるんすか

千種創一

煙草はコミュニケーションのツールでもあり、喫煙者同士では、煙草をあげたりもらったりするということが頻繁に起こる。煙草やカロリーメイトといった、インスタントなものに頼りがちな、やや不健康な「先輩」が目に浮かぶようであり、煙草を差し出すということを名目にして相手に調子を尋ねたかったのではないかと思う。

たどたどと人の煙草にマッチ擦るいつかいやしき吾が厭はし

榎本美佐夫

煙草を受け渡しするだけでなく、煙草に火をつけるというコミュニケーションもある。この歌ではおそらく不本意に、接待という形で人の煙草に火をつけたのでそんなことをする自分が厭になっているのだろうが、そうではなく、自発的に他人の煙草に火をつけるという行為は、どこか美しい親愛の象徴だろう。

嫌煙の鬼にもなれず

煙草が社会的な側面を持つのは、単に喫煙者同士のコミュニケーションによるだけではなく、その煙が否応なく周囲の人間にまで及ぶためでもある。

嫌煙の鬼にもなれずオフイスの窓少しあけ烟逃がしむ

中島央子

この歌は1997年のものだが、当時は人の煙を疎んずるという概念はあったものの、まだそれを強く主張することはできなかったのだろう。オフィスで煙草を自由に吸っているというのも、たかだか20年ほど前のことなのに、現在の感覚からすれば隔世の感がある。

喫煙をするならばせよと許されし白き矩形の内側にをり

小池光

従順な男らかたまり白線の内にくゆらす煙草のけむり

久々湊盈子

これらは中島の歌と同時期のもので、一方で着々と分煙が進んでいたことがわかる。しかし、当時は「白き矩形」「白線」といった形で、喫煙するエリアが示されていただけで、今のように半透明の仕切りで囲われているなどといったことはなかった。

私は1998年の生まれなので、あまりこの歌が詠まれた頃の風潮がわからないが、たしかに幼い頃には、駅のホームでは灰皿が外れの方にあるといった程度の分煙しかなされていなかったように思う。

ベランダへ細く煙が流れてく「そうしていると猫背、目立つね」

山崎聡子

人が、ベランダで煙草を吸うようになったのはいつのことなのだろうか。『デジタル大辞泉』によれば、「ホタル族」という語は平成に入る頃に生まれたらしいから、その頃には既にそれなりに多くの人が、同居する人の要望か、あるいは自主的な遠慮からベランダや庭で煙草を吸うようになっていたのだろう。

この歌では、話者は煙草を吸っている人にどちらかというと好意的な目線を向けているように思われるので、喫煙者の方が遠慮してベランダに出て吸っているのかもしれない。

おわりに:生き延びるためではなく、生きるために

ここまで、いろいろな歌を通じて煙草を3つの視点、具体的には「心理的性質」、「外形的性質」、そして「社会的性質」から見てきた。
煙草には様々な性質があるが、そのなかで(近代)短歌と共通する点がいくつかあるように思う。

ひとつが、煙草も短歌も、良くも悪くも社会的な性質を持ちつつも、畢竟個人的なことであるということだ。たとえば煙草については、以下の歌に端的に表れている。

ふかしたる煙草のけむり眺めゐる夫には夫の寂しさあらむ

上田よしの

嗜好品はどれも大抵そうだけれど、煙草を吸うことはひとりの行動で、それによって得られる快楽はその人だけの快楽で、快楽によってどうにか折り合いをつける現実もその人だけの現実である。

短歌については、岡井隆はこう述べている。

 短歌における<私性>というのは、作品の背後に一人の人の――そう、ただ一人だけの人の顔が見えるということです。そしてそれに尽きます。

『現代短歌入門』

この「一人の人」というのが、近代短歌では長らく、作者自身のことだった。戦後、「主体」(直截に言えば、主人公)や「話者」といった別の存在が「一人の人」となることが多くなってきたが、「作者自身が詠んでいる」という考え方そのものが近代短歌を生み出したこともあって、今でもその影響力は強い。また結局、それが誰であれ、「一人の人」が個人であることには違いない。

煙草を吸うとき、そして短歌を詠むとき、そこにはただひとりだけが存在する。そういう意味で、煙草と短歌はどちらも、非常に個人的な営みである。

もうひとつの共通点については、まず穂村弘の論を参照したい。

穂村は、例えば次のような歌を紹介する。

したあとの朝日はだるい自転車に 撤去予告の赤紙は揺れ

岡崎裕美子

そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売って暮らしています

東直子

ここでは、「何を」したのか、「何が」きれいだったのか、といった「5W1H」の情報が省略されている。それらを書かないことによって、逆説的に短歌としてのリアリティが強くなっているとし、書かないことがなぜリアリティを生み出しているのかという点について、以下のように述べている。

 これらの逆を考えることでみえてくるものがあるのではないか。これらの逆とは、5W1Hを常に明確にして、矛盾や混乱を排除する方法ということになるだろう。そのような方法の背後にあるものを端的に云えば、それは合目的的な意識にほかならない。人間にとっての日常的、社会的な行動の殆どすべては、このような合目的的な意識と方法によって支えられている。日常の多くの場面において、我々は、5W1Hを明確にすること、矛盾や混乱を排除すること、を要求され続けてきたはずだ。そして人間のすべての目的とは最終的には「生き延びる」という大目的に収斂されるのである。

『短歌の友人』

そして、

うめぼしのたね、、おかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏

村木道彦

という歌でベンチに置かれているものが「図書館の本」でも「コカコーラの缶」でもなく、「うめぼしのたね、、」である、ということがもたらすリアリティを踏まえて、

すなわち、人間の生存を支える合目的的な意識こそが、ベンチ上に確かに在るはずの「うめぼしのたね、、」を、我々の目に映らなくしている(中略)。すべての人間にインプットされている「生き延びる」という目的とそれに向かう意識こそが、我々を詩のリアリティから遠ざけているのではないだろうか。(中略)我々の言葉が〈リアル〉であるための第一義的な条件としては、「生き延びる」ことを忘れて「生きる」、という絶対的な矛盾を引き受けることが要求されるはずである。

(前掲書)

と結論づける。

私は短歌が、「生き延びる」という「大目的」に対して合目的的ではなく、それを忘れて「生きる」ことを要求する、という点において、煙草との共通点を見出す。

煙草は有害であり、生存という観点から見れば合理的ではなく、当然「生き延びる」ということについて合目的的ではない。それでも煙草が世の中に存在し、それを楽しむ人がいるのは、まさに「生き延びる」ことを忘れて「生きる」ためではないかと思う。そうであってこそ、短歌の言葉が〈リアル〉であるように、この生そのものが〈リアル〉になるのではないだろうか。

また煙草や短歌が個人的な営みであるという前述した共通点についても、人間が構築したこの社会が、「生きる」ことではなく「生き延びる」ことを絶対の価値として、複数人で協力することを前提としたシステムである以上は、個人的であるということは、「生き延びる」という大目的に対して合目的的でないことになり、煙草と短歌の共通点は結局、そこに収斂する。

煙草の他害性が、その価値についての評価を難しくすることを踏まえてもなお、私には短歌や煙草のような存在が、人間が「生きる」ことを望む限りは必要であるように思われる。

参考文献

Shunichi Shiomi

cuyulas 編集部/吸っている銘柄:ハイライト

Visited 49 times, 1 visit(s) today

コメント

タイトルとURLをコピーしました